ミドリムシから思うこと?子供向け科学の文

 ミドリムシは目では見えない小さな生き物です。みなさんも名前は知っている人もいるでしょう。テレビやインターネット、本で見た人もいると思います。その名前のとおり、ミドリ色をしていますね。



小学6年ごろに理科で習うと思いますが、植物のかなりは葉緑素(ようりょくそ)と言って、糖分(とうぶん)を作る緑色した細胞を持っています。ミドリムシもその働きがあるから、緑色をしているわけです。でも、顕微鏡(けんびきょう)でみると、ミドリムシは自由に動きます。走るし、べん毛と呼ばれる一本の毛みたいなものも動かせる。だから、動物みたいでもあります纖瘦店
  


ぼくもよく知らなかったため、インターネットで調べたところ、ミドリムシは1660年ごろのオランダで発見されたそうです。そのころのヨーロッパでは、顕微鏡(けんびきょう)が作られていったため、目に見えないだけ小さな生き物(微生物?びせいぶつ)も次々と見つかりましたが、ミドリムシもその一つだったのですね。それから300年近くたった1950年ごろには、ミドリムシには葉緑素も持っていて、植物の性格もあることがわかり、話題になったそうです。その後はかなりの栄養素(えいようそ)も含まれていることもわかり、ぼくが子供の時にはミドリムシから宇宙食も作ることが研究もされていました。小学や中学の時も理科の時間に「ミドリムシは動物でもあり、植物でもある、面白い生き物だ」と先生に教えられ、おもしろく思ったものです。今では、ミドリムシから体を元気にする薬が作られたり、ビスケットも作られています。食べ物の少ない国でミドリムシからビスケットを作り、食べてもらうことも日本などの科学者たちは考えています纖瘦店



ミドリムシが地球に生まれたのは5億年前らしいです。古い生き物ですね。そのころの地球は目に見えない微生物だらけでした。その微生物の中から、後の動物になるものや植物になるものが進化して、大きな生き物になりましたが、ミドリムシはミドリムシのまま、ほとんど変わりませんでした。でも、もし、何かのきっかけで、ミドリムシが進化していたら、動物?植物の両方の性質を持つ生物も生まれたかもしれません。その中から人間のような知能を持った生き物も出たことも考えらます。緑色の皮膚(ひふ)をして、晴れた日は日光浴をして、自分で糖分を作る人間が。そう考えると面白いし、宇宙は広いですから、どこかの星にはそのような「ミドリ人間」もいるかもしれませんね。そのほか、ロボットが進化した人間みたいな生き物とかも。宇宙の人たちもいろいろいると思います。また、われわれ地球人もいろいろな人がいますね。理科の好きな人もいれば、国語の好きな人もいる。体育の好きな人もいれば、歌の好きな人もいる。走れる人もいれば、歩けない人もいる。目が見えない人もいる。でも、みんな「命」を持つ人間です。でも、一人一人ちがうからこそ、助け合い、友だちになって生きていけるわけですね。そして、地球を生きていきましょう纖瘦店

にっこり満足して、さようならが言えるか?

ここのところ、小さな悩みがチマチマと募っていた。


悩みは小さいのだが、自分の選んできた道は間違っていたのだろうかと、自信がなくなったり。


トゲがちくちく刺さるような、神経が少しピリピリ痛いような。
今までさほど感じたことのない感覚だった




あと20年。
好きに生きることができる年月。
20年後は、覚悟しなければならない。
泣いてもわめいても、自分の人生の落とし前を自分でつけないと。
ぴったり20年後というわけではなく、多少の年月のズレはあるだろう。
だいたい大まかに見ている。
(不慮の事故などに遭わない、幸せコースの想定である)


鳥越俊太郎氏も、自分の残り人生を考えて、立候補したのだろう。
彼は、少しお疲れ気味であるし、あまり余裕を感じないし、やや無理をしているようなかんじである。
当選しないような気はするが、それでもいい。
たとえ落選しても、なにもしないでいることに耐えられない、今の政治に対する疑問、危惧、懸念、不安、不信、反発が、彼を動かしたのだろう。
生きるエネルギーである。
死ぬというのは、どう生きるかだ。



どう生きるか。


自分は超高齢なのに、日本人の平均寿命をとっくに超えている、いつ死んでもおかしくない年齢なのに、
人は生きることにしがみつく。
人間を含め、動物、生物は年を取ると自然に帰るものだと、達観などできない。


わたしも、あの世に行くのは20年後と思っているのは、終活?準備期間の猶予をカウントしていないので、
実は、25年から30年後と根拠なく楽観的に、胸算用している。
でも、案外15年後に、エンマさんからお誘いがあれば、「予定より早すぎてこころの準備ができないじゃないか」、と、わめきちらしそうだ。



人命だけではない。
モノの命、モノの寿命を感じ、別れを惜しむ気持ちになる。
自分が生きている今の間にじっくり、この20年間に、慈しむものや愛でるものは、しっかりと、悔いのないように、こころにすっぽり納めたい。
目に焼き付けたり、触って感触を楽しんだり、空間や空気を肌感覚で感じたり、匂いや光、音、温度など、五感を使って、ありとあらゆるモノの命を、自分の命と同時進行して大切に味わいたい。



人の命→自分の命ばかりを考えている。さすがの自己チュー。
よく考えると、家族との別れは悲しいはずである。
今のわたしの想像では、現世の人々との別れよりも、自分の命そのものがなくなることのほうが重大のようだ。


今までは、自分は生きたまま、自分ではない人がこの世を去っていく、自分の前から消えてなくなる経験が多く、寂しかったり悲しかったりしたが、
今後は、自分がこの世から去ることに重心、視点を移す。


自分がこの世からなくなった経験は、まだしたことがない。
自分がこの世からなくなると、したいこともできず、悲しいだろう。
今、元気でバリバリなんでもしたいことができるときなら、さぞやこの世から去るのは悔しいだろうけれど、
弱ってきていたら、バリバリの時ほど悔しくて悲しいことはないだろう。
なんの生きがいもなく、ただ生きているだけなら、早く次のステージに移りたいと思うことだろう。まして、病気で苦しみ回復困難となれば、一時も早く楽なところに行きたいだろう。



超高齢なのに、この世に未練たらたらの人は、今が楽しいからだと思う。
幸せであることの証拠のようなものだ。
なんでもそうだ。
パーティの真っ最中、ノリノリ状態の時に帰らなければならないと、ショックでしょんぼり、おもしろくなくて悲しいように。
ピークも過ぎ、人も帰りかけ、会場の人もまばらになり、そろそろお開きか、という、そのタイミングなら、納得することだろう。
楽しかった余韻だけが、じんわり残ることだろう。
キャンプファイヤーの残り火が消えていく過程で、胸がきゅんと切なくなるだろう。
消える瞬間は、心臓が止まりそうに痛いだろう。
でもまた、次のパーティがある。
が、高齢の人の場合は、もう先がない。


次回を期待せず、いつも、その時その時を最大に燃えて満足していれば理想である。
いつお迎えが来てもいいと思えるほど、充実の時を過ごせると、最高の人生だ。
が、そうはうまくはいかない。
思い通りにならないのが、人生だ。


20年後は、おそらく違うことを考えているだろう。
30年後は、きっと、なにも考えていないだろう。

本妻と妾

とあるブログを、初めて読んだ。
素晴らしく文章がキリリと冴え渡っていた。
思考回路、目線にしびれた。
それよりも、なによりも、表現の仕方よりも、中身。
お料理も見かけも大事だが味。人間も然り。
その中の、「雀のお宿」の、本当は怖いグリム童話・日本昔話版を読んで、無性に書きたくなったdream beauty pro 好唔好


本妻と妾。
妻妾同居は、かつて、国の福祉政策代わりに、おカネのある人がやっていた。
国家のおカネを歳出するのではなく、個人のおカネで救済していたと見る。
まあ、それはよいとしよう。(よくないが)


女性が夫と男妾と同居している例は、あまりない。
文豪同士で、元女房をやりとり、交換していた例はあるようだが。
芸術家の岡本太郎のお母さんも、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして、芸術を爆発させる元を作っていたのか?
一人の女性に複数の男性。重複・同時進行型。


まあ、それはよいとしよう。(人は人)


愛を勝ち取るための、冷静な戦略。
これは、すごい。
愛でなくても、国盗り物語風の、国家戦略とか、逆に、国を牛耳るための策略とか、
自分の思いを遂げようとすると、情熱だけではなく、知恵と理性と策略と実践力がいる。
強力な優秀ブレーンがいると五重マルdream beauty pro 脫毛


一時の嫉妬や激情に振り回され、理性を失うのではなく、じっくり自分のもとに夫が帰ってくるような冷静な判断ができる思慮の深さこそ、
これがホンモノの愛だ!!なんてことになるのだろうけれど。
わたしは、策略を練る余裕のある(男女の)愛なんて、クビをかしげる。
愛は常に狂気を伴うものだと思っているからだ。
冷静な慈愛に満ちた愛は、男女間の愛には、ちょっと違和感を感じる。
恋のライバルを蹴落とす方法を、刃を研いで練る、というのも、わからないでもないが。
策略を練るシーンとしては、わら人形系がぴったり、しっくりする。


まあ、それはよいとしよう。


自分のもとに戻ってくるための、緻密な計画を練り、冷静沈着な人って、怖くないか?
善人なのか?
(確かにヨミは鋭いが)
しかも、良い人、素晴らしい人、よく耐えた人、という絶賛評価つき。
狂って、はちゃめちゃしている人のほうが、人間らしくてかわいいような気もするdream beauty pro 脫毛


物語は、たいがい、「頑張った人にご褒美」というコースが用意されている。
そのほうが、読む人が安心するからだろう。
自分が辛い立場にあっても、地道に努力を続けていると、神様が見てくれている、と思いたい。
うまいことやった、要領の良い人が、のうのうと幸せをつかむストーリーは、不公平で腹が立つに違いない。


なので、気の毒だった人が、頑張って、乗り越えて幸せになる筋書きに、人は惹かれるようだ。
意地悪人間が、はじめは勝っていても最後は、負ける、そういうのが好きらしい。
水戸黄門さま的勧善懲悪が、日本人は、毎日の安心ご飯か。


まあ、それはよいとしよう。


賢い知恵者に対して、いささかの胡散臭さを感じてしまう。
それもそうだが、雀のお宿(本当は怖いグリム童話・日本昔話版)の、最後は奥さんのもとに帰ってくる夫、
このハナシ、出来すぎ。
元妾はもちろんのこと、奥さんにも見放されるほうが、ハナシとしては現実味があり、活気があると思う。


「あんた、いらん。お払い箱」
ぽいっ。


そこからストーリーが始まるほうが、面白い。


(いまや、そういうのも、斬新さや新鮮さに欠けるかも知れないが)



ふと思った。
カネ目当ての元妾が、とっとと逃げていった、あの展開、
「カネ目当ての妻がとっとと逃げていった」にすると、笑うに笑えない、ストーリーになるのだろう。
(第一生命のサラリーマン川柳で優秀作品があった。
「退職金もらった瞬間、妻ドローン」)


元妾は、カネ目当てではなく、愛情を抱いていたとすると、これまた平凡な、お仕着せ倫理ストーリーになって、温度が下がる気がする。
愛情ではない、なにか、ということにすると・・・?
なにか、って、なに?


いったい、どんな展開がいいって言いたいの?と自己ツッコミ。
う~ん・・・
人の数だけ人生はあるけれど、読み物と現実は交差してるのか?


みなさん、自己責任で各々の幸福を追究してください。