にっこり満足して、さようならが言えるか?

ここのところ、小さな悩みがチマチマと募っていた。


悩みは小さいのだが、自分の選んできた道は間違っていたのだろうかと、自信がなくなったり。


トゲがちくちく刺さるような、神経が少しピリピリ痛いような。
今までさほど感じたことのない感覚だった




あと20年。
好きに生きることができる年月。
20年後は、覚悟しなければならない。
泣いてもわめいても、自分の人生の落とし前を自分でつけないと。
ぴったり20年後というわけではなく、多少の年月のズレはあるだろう。
だいたい大まかに見ている。
(不慮の事故などに遭わない、幸せコースの想定である)


鳥越俊太郎氏も、自分の残り人生を考えて、立候補したのだろう。
彼は、少しお疲れ気味であるし、あまり余裕を感じないし、やや無理をしているようなかんじである。
当選しないような気はするが、それでもいい。
たとえ落選しても、なにもしないでいることに耐えられない、今の政治に対する疑問、危惧、懸念、不安、不信、反発が、彼を動かしたのだろう。
生きるエネルギーである。
死ぬというのは、どう生きるかだ。



どう生きるか。


自分は超高齢なのに、日本人の平均寿命をとっくに超えている、いつ死んでもおかしくない年齢なのに、
人は生きることにしがみつく。
人間を含め、動物、生物は年を取ると自然に帰るものだと、達観などできない。


わたしも、あの世に行くのは20年後と思っているのは、終活?準備期間の猶予をカウントしていないので、
実は、25年から30年後と根拠なく楽観的に、胸算用している。
でも、案外15年後に、エンマさんからお誘いがあれば、「予定より早すぎてこころの準備ができないじゃないか」、と、わめきちらしそうだ。



人命だけではない。
モノの命、モノの寿命を感じ、別れを惜しむ気持ちになる。
自分が生きている今の間にじっくり、この20年間に、慈しむものや愛でるものは、しっかりと、悔いのないように、こころにすっぽり納めたい。
目に焼き付けたり、触って感触を楽しんだり、空間や空気を肌感覚で感じたり、匂いや光、音、温度など、五感を使って、ありとあらゆるモノの命を、自分の命と同時進行して大切に味わいたい。



人の命→自分の命ばかりを考えている。さすがの自己チュー。
よく考えると、家族との別れは悲しいはずである。
今のわたしの想像では、現世の人々との別れよりも、自分の命そのものがなくなることのほうが重大のようだ。


今までは、自分は生きたまま、自分ではない人がこの世を去っていく、自分の前から消えてなくなる経験が多く、寂しかったり悲しかったりしたが、
今後は、自分がこの世から去ることに重心、視点を移す。


自分がこの世からなくなった経験は、まだしたことがない。
自分がこの世からなくなると、したいこともできず、悲しいだろう。
今、元気でバリバリなんでもしたいことができるときなら、さぞやこの世から去るのは悔しいだろうけれど、
弱ってきていたら、バリバリの時ほど悔しくて悲しいことはないだろう。
なんの生きがいもなく、ただ生きているだけなら、早く次のステージに移りたいと思うことだろう。まして、病気で苦しみ回復困難となれば、一時も早く楽なところに行きたいだろう。



超高齢なのに、この世に未練たらたらの人は、今が楽しいからだと思う。
幸せであることの証拠のようなものだ。
なんでもそうだ。
パーティの真っ最中、ノリノリ状態の時に帰らなければならないと、ショックでしょんぼり、おもしろくなくて悲しいように。
ピークも過ぎ、人も帰りかけ、会場の人もまばらになり、そろそろお開きか、という、そのタイミングなら、納得することだろう。
楽しかった余韻だけが、じんわり残ることだろう。
キャンプファイヤーの残り火が消えていく過程で、胸がきゅんと切なくなるだろう。
消える瞬間は、心臓が止まりそうに痛いだろう。
でもまた、次のパーティがある。
が、高齢の人の場合は、もう先がない。


次回を期待せず、いつも、その時その時を最大に燃えて満足していれば理想である。
いつお迎えが来てもいいと思えるほど、充実の時を過ごせると、最高の人生だ。
が、そうはうまくはいかない。
思い通りにならないのが、人生だ。


20年後は、おそらく違うことを考えているだろう。
30年後は、きっと、なにも考えていないだろう。